鑑賞日:1980年 3月29日 |
映画館:浅草ロキシー |
子供の頃、テレビのアニメをよく見ていました。再放送も多かったと思います。ジョーよりも力石の方が大人に見えたこともあり、私は力石の方がお気に入りでした。
当時の鑑賞日記は短く、手厳しいです。
【当時の鑑賞日記】
ジョーの言葉が気になった。「セコい」とか今の流行語を使っていた。そんなことをしなければよかったんじゃないかな。終わり方が良くなかったな。
左は映画のパンフレットの表紙です。おまけのセル画というのは映画で使われたものではなく、ビニールのような用紙にジョーの姿を写したものです。右は映画のフライヤーです。表面に映画館の名前が入っています。
鑑賞日:1981年 7月19日 |
映画館:浅草ロキシー |
前年公開された『あしたのジョー』の続編。当時とても好きだったようで、当時の鑑賞日記でも熱く語っています。
【当時の鑑賞日記】
よかった。前作に比べると今度の方がずっといい。
力石(空想)との会話
「ジョー、どうしたい」
「どうもしねえ」
「そうか。じゃあな」
「またな」
意味深な会話だよね。
カーロスがかわいそうだったな。自分の名前は忘れてるのにジョーは覚えていた。
私はジョーは死んだと思うね。「力石、俺もすぐそばに行く」そう言ってたみたいな顔をしてた。ちらっとリュックを背負った姿がでたけど、ジョーは死んだよ。燃え尽きて。
当時、リングのコーナーに座り込むジョーが燃え尽きて死んだのか否かと論争(!?)があったように記憶しています。私は前者だったようです。
左上の画像はパンフレットの表紙。前作のパンフレットは右綴じでしたが、本作のパンフレットは左綴じになっています。
左は映画のフライヤー。フライヤーは2パターンありました。イラストバージョンとアニメバージョンですね。前作のフライヤーとはかなり違います。
鑑賞日:1979年 3月21日 |
映画館:丸の内東宝 |
【当時の鑑賞日記】
泣きました。すごく泣いた。ハイジがロッテンマイヤーさんに教会の塔が一番高いと教えられ一人で塔に登りアルプスの山を見ようとしたのに屋根しか見えなかった時に泣き始めた。(中略)とても素敵な映画だった。でもテレビの放送の時から好きだった。
左は映画のパンフレットの表紙です。表紙に映画館の名前が入っていますね。『アルプスの少女ハイジ』ではクララが立ち上がるシーンばかりが取り上げられますが、パンフレット内の絵はハイジがアルムの大自然の中で楽しく暮らす天真爛漫な姿ばかりです。
鑑賞した映画館の日劇は円形のエントランスだったと記憶しています。現在その跡地には有楽町マリオンが建っていて、最上階の映画館には”日劇”という名称が残っています。
子供の頃、映画鑑賞日記をつけていたのですが、その記念すべき第1ページがこの作品です。本作鑑賞日の1979年3月21日は昭和54年3月21日で数字が並んだ日。記念に残る事をしようと思い映画鑑賞日記を始めました。このノートの存在から本サイトへ発展していきました。
2019年国立近代美術館で見た『高畑勲展』でも『アルプスの少女ハイジ』の魅力を再確認しました。
鑑賞日:1981年 7月27日 |
映画館:文芸座地下 |
文芸座地下に初めて入りました。『パンダ・コパンダ 雨降りサーカスがやってきた』と2本立て上映でした。
【当時の鑑賞日記】
また泣いてきました。よかったねー。
ハイジがすごくかわいかった。フランクフルトではさ、ハイジがかわいそうでかわいそうで。おじいさんとまた会った時、また泣いちゃった。私を泣かせた映画は今のところハイジだけ。あーよかった。
子供ながらに2度目の鑑賞です。この作品が好きだったこともあったのでしょうが、ホームビデオやレンタルビデオショップなどがあまり一般的ではなかった時代で、映画館へ何度も足を運ぶしか鑑賞の方法がなかったのだと思います。
鑑賞日:2024年11月 3日 |
映画館:丸の内ピカデリー シアター2 |
第37回東京国際映画祭で上映されました。子供の頃にテレビの再放送で見た以来数十年ぶりの再会で、映画も初見でした。チケットの予約をした後で、当日声優の麻上洋子さんが登壇することを知り、楽しみに行ってきました。
本作は1977年に上映された『宇宙戦艦ヤマト 劇場版』を4Kリマスターしたもの。オリジナルの映画はテレビアニメを再編集したものです。
往路、イスカンダルへ向かうまでは非常に丁寧に話を追っていました。スターシャと古代守の別れのシーンには涙が出そうに…。
それなのに…。
復路の地球帰還は一足飛びでちょっと肩透かし。艦内の窮地を救い倒れた雪を抱えて絶望する古代進のシーンが全てカットされていてびっくりしました。これ、森雪ファンの方々は納得いかなかった(?)のではないでしょうか?
「明日の幸せは自分の力で掴む」というセリフが、当時のヤマトファンの心を掴んだでしょうし、本日鑑賞していた方々の心を鼓舞したかもしれません。
納谷悟朗さんの声の素晴らしくかっこいいこと! ”二枚目の広川太一郎さん”の声も久々に聞きました。ささきいさおさんの『真っ赤なスカーフ』が出航する若い隊員の心情を表したものだったのだと初めて気づき、しみじみと聴き入ってしまいました。
・・・・・・・・・・
上映前に森雪の声優、麻上洋子さん(現在の芸名は一龍斎春水)が登壇されました。変わらずに澄んだ声での第一声「古代くん」に会場はざわついていました。
麻上さんは当時の様子を生々しく語ってくれました。
麻上さんは「声優に憧れて声優になった最初の人」と言われていたそうです。『鉄腕アトム』の清水マリさんに憧れて国内初の声優学校(黒沢良さんが作ったそう)の第1期生となり、業界に入ったそうで、アニメも声の仕事も好きだったとか。
当時、麻上さんと同年代の若い声優さんはいなかったそうで、収録時はいつも緊張していて椅子にも座れなかったそう。富山敬さんが気を遣って「ここに座りなさい」といつも声をかけていたそうです。
今でこそ声優は花形の職業ですが、当時は”声優”という仕事に愛着のある方が少なかったのかもしれません。顔を出さない声だけの仕事に舞台俳優さんの中には魅力を感じない方もいたのでしょう。当時の先輩方の中にはアニメ好きというより”演じることが好き”という方が多かったそうです。麻上さんは先輩方よりも”アニメ愛”が強かったのでしょうね。
また、アニメ愛についてはアニメの制作会社にも言えることで、当時は虫プロから独立した人たちが、自分達の好きなことをアニメにしていったそうで、「おもちゃが売れるから」ということでアニメを作成することもなかったとか。ちょっと辛口ですね。
声優という仕事がこれほど注目されて憧れられる職業になっていったのは創成期の声優陣が努力していたからでしょう。学校を作った黒沢良さん然り、愛情深く後輩を育てた永井一郎さん然り。そんな環境で育った麻上洋子さんは”スター声優”第一号だったのかもしれません。